『人一人給飲食弥生傅辭出入求』 この貼り紙が民衆の面前まで出回ったのは西暦にして丁度二百の年だった。 「おい…これやれば不自由なく暮らしていけんじゃねぇか」 “食事を運び、言葉を伝え出入りする――卑弥呼王の下を――一人、求める”という内容に邪馬台国の人々は沸き返っていた。そして、その内の一人である彼――その名も、胡蝶。 「不自由どころじゃないぜ、胡蝶。一生崇められ、敬われるだろうよ。まぁ、そんな夢見るだけ無駄だ。またどっかのお偉いさんが卑弥呼様に仕えるんだろ。この貼り紙が民衆まで届くことになったのは卑弥呼様の御慈悲の御蔭だよ。」 そう答えるのは胡蝶の友人、綜屡である。 「そうだよな、崇められて敬われたら母さんの病も診てもらえるよな。」 目を輝かせて言う胡蝶に綜屡は呆れて言った。 「お前、俺の話聞いてたか?まぁ、無理は無理だから早めに諦めといた方がいいぞ。俺はまだ可能そうな酒池肉林を目指すか。」 「何言ってんだよ。卑弥呼がこんな貼り紙を民衆に見せたのは、民の誰かから選ぶとするか、って考えたからに決まってるだろ。」 「はいはい。せいぜい、胡蝶の夢状態になるのはやめとけよ。」 そういいながら綜屡は去っていった、右手をヒラヒラさせながら。残された胡蝶はただ、 「俺の夢状態――…?」 と首をかしげることしかできなかった…。 *** 「母さん、母さん!」 胡蝶は下層地域にある家に戻るとあの貼り紙の事を早く伝えようと母さんを何度も呼んだ。 「寝てるのかな、母さん…」 いつもは呼ぶと直ぐに返事をしてくれるのに母さんの部屋へと続く道はしんとしたままだ。少し不安になりつつ、戸を開けると… 「お主がこやつの子であるか。」 薄暗い部屋に立っていたのは幾人かの男達。 「だ…誰だ!?」 「見りゃわかるだろ雄略様の使いさ。下層地域の奴らが病原菌を撒き散らせてるっていう“忠告”がとどいたからさ。」 (雄略!) ――…卑弥呼の弟だ。 胡蝶の家はもともと裕福な筈だった。父親は国一番の楽師、そして母はそれに合わせて踊る、国一番の舞妓――の筈だった。そして胡蝶もその手ほどきを受け始めていた頃、その才能を妬んだ者達が、父を暗殺。舞妓で稼ごうとした母に合わせて少しでも爪弾こうとする楽師もいなく、慣れない仕事のしすぎで過労。そのまま病にかかり、胡蝶は母のために少しでも稼ごうと躍起になっていたのだ――… それを、雄略が壊した。雄略が、卑弥呼の弟が、卑弥呼が―― 「こうしてくれ、とな。」 そう言って男が体をずらした先には、血にまみれた母の体。服はひき裂かれ、涙の跡が暗がりでもはっきりわかる。それを見た瞬間胡蝶の頭の中で何かが切れた。 「おいっ、何処へ行くんだ!」 男の声など、もう胡蝶の耳には届いていなかった。 (あいつが壊したんだ、あいつが…!!) 胡蝶の胸の内には、その言葉が鳴り響いていたまま。ただ、卑弥呼を目指して駆けることしかできないまま。何故、雄略ではなく卑弥呼を目指したのかわからない。単に、ついさっきの貼り紙をみて卑弥呼に仕えようと考えていた自分を消したいからかもしれなかった。現実はそんなに簡単なものでもないことをしりながら。 *** 「何処から来た。」 卑弥呼の居城の門前で、胡蝶はやりを突きつけられ、問われる。 「何も答えぬ気だな。だが、その格好…下層地域の者だろう。」 嘲笑され、唇を噛み締めることしかできない。 「まあ、卑弥呼様に免じてここは許してやろう。お前は誰か様の残飯処理でもしてりゃいいんだよ。」 そういって門兵は胡蝶を道のど真ん中に突き飛ばした。残されたものは、絶えぬ嘲笑でしかなかった。 「くそっ…」 訳も分からず涙が出てくる。悲しいわけではない。父のために、母のために、何もできなかった自分がただ悔しくて。 「ねぇ…」 「何だよ!」 呼びかける声に、胡蝶はつい怒りをぶつけていた。けれどその声は変わりもせずに穏やかな声で胡蝶に語りかけてきた。“こっちにきて”と。その言葉に胡蝶がようやく面を上げるとそこに立っていたのは、漆黒の髪に、真白の肌…まさに、女神と呼んでもいい程に美しい少女―― 「こっちって…?」 涙に濡れた目を瞬かせて胡蝶は問い返す。 「こっちはこっちよ、ほら」 そう言いながらその少女は胡蝶を立ち上がらせて、手を握ったかと思うと走り出した。 「えっ、ちょっ…!?」 戸惑いながらもその手に引かれて駆け出す。走ると吹く風が涙をふき取ってくれるのを感じた。 手と手の間には微熱があって、それが温もりだと、知らないまま強く握り返していた。 「…ほら、ここよ。ここから中に入れるの」 肩で息をしながら少女が指差した先には鍵のかかっていない扉。 (どうしてこんなことを…それにどうして俺に?何か目的があるのか…?) 半信半疑のまま胡蝶は眉をひそめた。 「君は、何者なんだ?」 尋ねられた少女は相も変わらず、 「それを知ってどうするの?」 と言い返す。 「否、ただの召使いがこんなこと知ってるわけないだろう。大体、鍵にかかっていない扉がある時点で不自然じゃないか。何のためにこんなことしてるんだ」 「だから、それを聞いて何になるっていうのよ、あなた中にはいりたいんでしょ?こんな機会みすみす逃すつもり?」 そう言われるとどうすることもできない。少女について扉の内側へと踏み込むことしかできなかった… 「ねぇ、あなた卑弥呼に会いたいんでしょう」 「なっ…何で知ってるんだ!」 いきなりの少女の言葉に胡蝶は焦った。ここはどこだかわからないが、卑弥呼の居城へと近づいているのだろう。けれど、卑弥呼の元へ行って何をしようかなどと全く考えていなかったことに今頃気づき、初めて不安という名の感情にかられた。 「この国には結構卑弥呼に不満持ってる人いるのよ。ここに来る人なんてみんな“稲が育たないのは卑弥呼のせいだ”とか、そんなのばっかりよ」 「じゃあ、どうして俺を中に入れたんだ?それともいつも中に入れてあげてんのか?」 「まさか」少女は当たり前のように言ってから、少し迷って「だって、あなた普通の人とどこか違ってたんだもの、とても必死なー…」 「当たり前だろ!」 いきなり大きな声を出してしまった自分に驚きながらも、胡蝶は小さく繰り返した。 「あたりまえだろ…守れなかったんだ……母さんを…それなのに、悠々としてられるわけないじゃないか…」 自分に対する憤り。 誰かに対しての八つ当たり。 そうでもしないと、壊れてしまいそうなんだー… 「ごめんなさい。」 あまりに白く、透き通った声に、胡蝶は思わず顔をあげていた。 「どうして君が謝るんだよ。それじゃまるで君が悪いみたいじゃないか。俺が、悪いんだ。これも、ただの八つ当たりなんだ…」 「違うの、私のせいよ。あなたのお母さまが亡くなってしまったの、ワカタケルの令のせいでしょう?私が止めようとしてたらもしかしたら変わってたかもしれないのに…」 「ちょ…ちょっと待ってくれよ。君は本当に何者なんだ?」 “ワカタケル”…まるで知り合いのような呼び方。ワカタケルの令を止めようとする?そんなことが可能なのか?もし、それが本当なら、それではまるでワカタケルより権力を持つー卑弥呼みたいじゃないか。 「あなたの名前は何というの?」 「は?あぁ…胡蝶だけど。それより…」 面食らったまま続けようとする胡蝶の唇をそっと人差し指で押さえて彼女は言った。 「綺麗な名前。“蝶”って意味ね…。あたしは――」 そして真剣な顔に戻る。 時が止まる気がする。 「あたしの名前は、卑しい名前―卑弥呼。」 まさか。胡蝶は頭の中で何かが全否定するのを感じた。 「う…嘘だろ?だって、卑弥呼はもうおばはんらしいし…否、でも少女の姿だっていう噂はあるけど…でもそんな……」 「よかった。」 「へ?」 意外な言葉に胡蝶は更に面食らう。 「切りかかられなかったから。憎まれてるかと思ったのに」 「しょうがないだろ、こんなのありかよ…」 まだ信じきれずに胡蝶は呆然と立ちつくした。あんなにも憎かったはずの卑弥呼が、こんなにも美しい少女だったとは。だけど、よく考えれば父さんを殺したのも、母さんを殺したのも卑弥呼じゃない。卑弥呼じゃないんだー……… 「卑弥呼はね、作られたものなの」 話し出した彼女の指先にはいつのまにか一羽の蝶が止まっていた。ぼんやりと見つめながら、まるで俺みたいだ、と胡蝶は思った。 「“卑弥呼”が女王としてでてくるまで争いが絶えなかったの、知ってるわよね?その時に国が考えたのが、幻の王―そして完璧な王を作ろう、ということだったの。女性の王、ってこれまでいなかったからその意外性に民は惹きつけられたのね。国の方でも苦肉の策で幻の王なんてもの作りだしちゃったから、もうどうにも引けなくなって、こんな城まで建てることになっちゃったの。」 「だけど、君が卑弥呼なんだろう?」 「私は、ただの付けたしよ。卑弥呼を出せ、といつ言われるかわからないからそのことを知ってる者の仲間内で代役をたてようってことになったんだけど…女が生まれなくってね、唯一の女だった私はいつのまにか“卑弥呼”に祭り上げられてたってわけ。ある意味、卑弥呼は少女の姿だ、っていう噂は正しいのよ。」 国の秘密を、卑弥呼を崇めている者の誰も知らぬっことを聞かされて胡蝶はどう反応すればいいのかわからなかった。それでも小さい頃から何不自由な暮らしてきた彼女は恵まれている、とどうしても思わずにはいられなかった。そんな気持ちに気付いたのか、彼女は呟いた。 「でも、私は卑弥呼になんてなりたくなかった。必死に毎日を生きてこそ命は輝くと思うの…もし私が本当に巫女だったら誰かれ構わずみんなにそう言ってたわ。ホンモノの巫女でもない私が言えることでもないけど、そんな命を何とも思わずに殺す奴は嫌い。私が言っても何も変わってなかったかもしれないけど言ってれば良かった、とめてればよかった…せめて、こんなホンモノでもない巫女だけど、あなたのお母さまの御冥福だけは祈らせて下さい……」 その言葉が胸に染み、胡蝶は不意に泣きそうになった。 蝶が指先から、大空へと飛び立つ― 俺は、俺は飛び立てるかな、 こんなどうすればいいのかわからない状態でも、いつかは飛び立てるのかな…。 今は春。この国中では蝶が飛び始める時期なのに、俺には飛び方がわからない―― 「ねぇ、胡蝶―」 差し伸べられる、白い手。 「あの…張り紙、見た?…良かったら、私のお付き人…なってくれなせんか?」 ―俺を、引っ張ってくれる手だ。 「…あぁ」 自然にその言葉が出る。この人に仕えようと、自然にそう思えた。 彼女は春。俺は、その笑顔で春心が与えられた蝶。 「嬉しい…この季節に、こんな素敵な蝶に出会えて…こんなこと言っちゃいけないかもしれないけど、幸せなの。まるで…胡蝶の夢、にはまっちゃったみたいよ」 「なぁ…」こんなことを聞いたら無知だと思われてしまうだろうか。だけど、「胡蝶の夢…ってどういう意味なんだ?」 だけど、君に関わることなら聞いておきたいんだ。 「そんなこと、も一回言わなきゃいけないの?さっきので、いっぱいいっぱいなのに」何故か、彼女の顔が赤くなる。「現実と夢の区別がつかない…ってことよ。つまり、胡蝶と出会って、夢みたい…ってこと。」 何故だか自分の顔まで赤くなるのを胡蝶は感じた。 「母さんを埋めてあげなきゃ…」それを思い出して、胡蝶は呟く。「母さんを、土に還してあげなきゃ…俺だけこんな幸せじゃ駄目だよな」 母さんのことを思い出すと、悲しみと怒りがせり上がってくる。だけど、彼女がいれば、何かできるかもしれないだろ? 「―私も行くわ。私なんかが行っても意味ないかもしれないけど。」 「否…君は、巫女だよ。だからきっと母さんも君が祈ってくれたら幸せになれるよ、天国でさ」 こく、と彼女は頷く。 「君は、卑しくなんかない」 強く、そう思う。 「だから―君は、君だけの名前をつけるべきだ」 君は、借り物なんかじゃないから。 君は、君だから。 ただ、君だから、 「俺がつけてあげるよ……否、俺がつけたいんだ」 それは二人だけの秘密。胡蝶の夢の中での出来事――― ―唯有男子一人給飲食 博辞出入。