昔の話だ。
遠い、昔の。
あれから、何回もの冬が過ぎた。
けれど。
汁粉を苦い、と思った雪の日は、あれ以来来ない。


「…で」
彼は相手を見すえた。
「俺に何の用だ」
「―此処の汁粉は、美味い」
「聞いてんのか!」
「熱すぎず、冷たすぎない、好きな温度」
彼は、ため息をついた。
「当たり前だ、この俺様が、江戸一番の甘味処って言ってんだから美味いに決まってんだろ」
「頼みごとがあるんだ」
「手前ェ、いい加減にしろよ、せっかくこっちが調子合わしたのによ」
「頼みごとが、あるんだ」
ゆっくりと、さえぎられた。
彼は、ばつが悪くなって、鼻の頭をかいた。
――そんなことは、分かっている。
長い付き合いだ、目の前のこの男とは。だから、この男が用事もなく他人をおとずれることなど、ありはしないのは知っている。そういうことだ。彼への「頼みごと」とやら、それは相当に大切なものなのだろう。
――ただ、なァ…。
あんまり重過ぎる内容でも、困る。
彼にだって、生活はあるのだ。しかもさほど裕福とはいえない。さらに悪いことに、先日女房に逃げられ、今年六つになる息子を抱えていかなければならなくなってしまった。つまり、家事・育児・仕事をこなしていくのである。お世辞でも暇などとはいえない。
だからきつい依頼、たとえば借金で首が回らないから金を貸してくれ、なんていわれても首を縦には振れない。
――まァその辺の道理は分かってる奴だから、無茶なこたぁいわねえと思うが…。
素知らぬ顔をして、彼は無言で続きをうながした。
真っすぐな視線。吸い込まれそうな真っ黒な瞳だ。
「俺は―――」 


「…で」
「今日は寒いな」
「聞いてんのか、馬鹿!」
「怒りすぎると体に悪いぞ」
彼は煙管の煙を、目の前の男にかける。
数えで十五、六になるその少年はゲホゲホと咳き込んだ。
「…爺ぃ、よくこんなもの吸えるな」
「あ?―子供には分かんねぇだろうな、この味」
「雪でも降ってるのかな」
「手前ェ…」
十年程前のあの日と、まったく同じ文句が口を突きそうになった。
――ったく、父子そろって…。
妙なところで似てるもんだ。
――父親の方はここまで腹立たしい奴じゃねぇがな。
そう思うのも、年齢のせいか。
「これも友情の賜物かね」
「何だ」
「いぃや、何でもない、爺のひとりごとよ」
不審そうにこちらを見つめてくる濡羽色の瞳。
「―あのな」
「誰も聞いてない」
「うるせぇ、勝手に話すから、聞いてろ。
苦ぇ汁粉の、話をな」
――預かった身として、果たさなきゃならねえんだ。
頭に浮かんでいるのは、やっぱりあの日の言葉だ。

『俺は、しばらく出ることにした』
言葉短に、でもだからこそ、いろんな思いの詰まった言葉。
彼には、頼みごとの中身も、目の前の男の気持ちもすべてわかっていた。わかった上で、うなずいた。
男の顔を、もう二度と見られなくなるだろう、ということも。
『…十年経ったら、教えてやってくれ』
今が、その時だ。 

「…そうか」
少年は、そっとつぶやいた。
耳が痛くなるような静けさだった。
外では、やはり雪が降っているらしい。
――また、雪か。
「寒いな」
「…ああ」
刻みたばこを煙管に詰め直した。
火を点ける。
「…酒やこいつが欲しくなるってのは、こういう時だ」
深く、吸う。
「無きゃ、やってらんねえ」
ちらりと少年を見やった。
彼の言葉など聞こえていない様子だ。床に頬杖をついてぼんやりといろりを見ている。
彼は立ち上がり、戸口へと向かった。彼なりに気をつかったつもりである。
「…煙吸いすぎた、風にでも、当たってくるとするかぁ」
「りんさんに逃げられた時も、か」
「あぁ?」
「煙管、吸ったのが、さ」
呆気に録られて振り返ったら、少々得意げな顔。
彼はしばらく少年を見つめていたが、次第に可笑しくなってきて、とうとう吹きだした。
「…っくっ、はっははは、ったく…」
笑いがこみ上げてくる。
見ると、少年は元の無表情に。彼は改めて木戸に手をかけ、
「――さァな」
背後で、くすりと声がもれた、気がした。