「撫子、帰ったぞ。」 「お帰りなさい。」 やさしい笑顔で俺を見る撫子。俺だけを見てくれるこの瞬間が、たまらなく好きだ。 「突然だけど...一緒に外へ行かないか?」 「え…でも‥‥」 撫子は病弱だ。それを気にしているのだろう。撫子の医者は、安静を命じている。……でも、今日は特別な日だから。 「もう三ヶ月も病院以外で外に出てないんだ。一回ぐらい出ても、大丈夫だ。」 「…本当に?」 「本当だ。」 撫子の瞼に映っていた、迷いの表情が、少し薄らいだような気がした。 「…行っても、大丈夫?」 「何度も言ってるだろう?大丈夫だ。だからお…」 「分かったわ!今、準備してくるね!」 俺の言おうとした、“おいで”という言葉はいつにもまして元気な撫子の声で、かき消されてしまった。そんなに元気な撫子を見たのはいつぶりだろうか。もう、しばらく見ていない気がする。 「…、これ、似合うかな……?」 ふと見上げれば、久々にめかしこんだ撫子の姿。その姿があまりにも儚くて、そのまま消えていってしまいそうで。気がつけば、いつの間にか撫子を腕の中に抱き締めていた。 「…っ、苦しいよ…」 その声が聞こえるまで、ずっと抱き締めていたみたいだ。でも、俺だって苦しいんだ。撫子がまた俺のもとから居なくなってしまう時の事を思うと。 「撫子、すまない‥‥」 「外に連れて行ってくれるんでしょ?早く行こうよ!」 撫子は、今の謝罪をなんだと思ったのだろう。……きっと、分からなかったのだろう。だから、どう対応して良いか分からなくて、話題をもとに戻してくれたのだろう。すまない、こんな不甲斐ない奴で。心の中で、撫子に謝った。 「そうだったな。それじゃあしっかりついておいで。……それと。」 その服、とっても似合ってるよ、と言うと、撫子は、ありがとうといって頬を染めてうつむいた。 「……!いつのまに……!」 「綺麗だろ?」 俺達の前に広がっているのは、雪に見立てた白い綿の中に広がるイルミネーション。街は赤と緑と金色に彩られ、テンポの良いクリスマスソングを流していた。 「すごく綺麗‥‥、ありがとう‥‥」 「俺は、お前の病気は治してやれない。俺がしてやれるのは、これくらいのものだからな。」 その気持ちが嬉しい、と撫子が呟く。本人は聞こえないように言ったのだろうが…丸聞こえだ。その姿が俺の目に、とても愛しく映えた。そして、撫子の頭を優しく撫でる。 「もうっ、子供扱いしないでよ!」 いつもと変わらない反応に、俺は少し、切なさを覚えた。もう、そう長く会えないのに、撫子の反応は変わらない。 撫子だけを、置いていってしまうような気がして。俺の記憶の中で、微笑み続けている撫子。変わっていってしまう、俺。 ごめんな…、撫子‥‥。 「‥‥どうしたの?今日、凄く変だよ?」 そんな俺の事に気付いているのか、撫子は俺に尋ねる。それに、大丈夫だ、と答える。 「手、つなごうか。」 暫く歩いて、そう告げる。撫子は驚いたような表情を一瞬浮かべるが、すぐに微笑って俺の差し出したてを握った。 …手袋もせず、すっかり冷えきってしまった撫子の手をぎゅっと握る。俺の熱が、撫子を暖められれば良い。 「なんだか、恋人みたいだね。」 「…そうだな。でも、たまには良いだろ。」 本当は、“たまに”じゃなくて“いつも”が良い。…それでも、俺は、この想いを打ち明けてしまっては、いけないのだ。それは、禁忌だから。 「あそこに入らないか?」 俺が指差したのは、どこか落ち着いた雰囲気を醸しだす、この時代には珍しい、レトロな喫茶店。その雰囲気を撫子も気に入ったのか、俺達は店に入った。 「いらっしゃいませ……。あぁ、柊君か。久し振りだね。隣にいるのは恋人かい?」 陽気な口調で話しかけてくるのは、ここのマスター。昔、俺がお世話になった、大切な人だ。 「ん?そう見えますか?」 「そう見えるとも。柊君はブラックで良いね?」 ここのコーヒーは絶品だ。サイフォンで淹れるここのは、俺好み。どこか、心の奥があたたまるような味がする。 「お嬢ちゃんの方は何が良い?」 ぼーっとしている撫子を、マスターの声が呼び戻す。‥‥久々の外出で疲れてしまったのだろうか。 「えっと……ココアをお願いします。」 ココア、ね、とマスターはクスっと笑った。 「お二人さん、お好きな席に座っておいで。」 その言葉に、外が綺麗に見える窓際の席を選んで座った。 久し振りに撫子と沢山話したと思う。撫子の日常の小さな発見、俺の職場の話、撫子の通う病院の話……話のネタは尽きなかった。 「お待たせ致しました。ブラックとココアになります。」 マスターが、コト、と小さな音をたてて、二つのカップをテーブルにおいた。「ごゆっくり」という声を聞いて、撫子を見やる、心なしか、熱っぽいように思えた。 「撫子、大丈夫か?」 「ああ、うん、大丈夫だよ?」 そういって、撫子は、ひとつのカップをとりあげた。それにつられて、俺もカップをとりあげる。それに口をつけた。 「甘っ」「苦っ」 俺達は同時に声を上げた。その様子を見ていたのか、マスターがククッと笑った。 「飲む時は、ちゃんと確認してね。」 苦笑いをして、撫子にカップを返した。 「私ってバカだねぇ」 あはは、と元気良く笑う撫子に、俺もつられて笑っていた。この状況がいつまでも続く訳ない、と頭では分かっていたのに、…油断していたのかもしれない。突然訪れる出来事に、俺の頭の思考能力は完全に麻痺してしまっていた。 笑顔は急に消え去った 君は突然苦しむように顔を歪め 俺の方に腕を伸ばした その腕は空を切り 鈍い音とカラダと共に 目の前から消え去った 呆然と、そこに立ちつくす 何かを叫ぶ悲痛な声とともに 現実を告げるサイレンは 僕の意識を呼び戻し ふと見下ろした木目には、 君のココアが零れていた 「ねぇ……お兄ちゃ……。自分を………責め…ない…で……ね……」 「撫子! 撫子っ、撫子!」 気がつけばいつの間にか、救急車の中に居た。そして、撫子の手を握っていた。 「私……実は…ね、‥…気…づいて‥…たの……」 途切れ途切れの撫子の言葉に、俺は引き込まれていく。 「もうすぐ…倒れ…………ちゃう・・・っ・・・て・・・・」 「撫子……。」 「最後・・・に、お兄ちゃ・・・・と、でかけ・・・・・・・・られ・・・・・・て・・・・・・・」 俺の握っていた手は、いつの間にか救急車のベッドの上に乗せられていた。 俺は、たった一人の大切な妹、愛していた女性も守れなかったのか。 俺の咽には、いつもよりもやけに苦くなったコーヒーが、やけつくように残っていた。