「今日は……撫子さんのお兄様がお見舞いに来てくださるそうですね。」
「桔梗先生、そのことなんですけど……。」
「竜胆先生・・・。」
「お兄さんと撫子とは会わせない方が良いと思うんです。」
竜胆先生は私の目を見て言った。その瞳からは不安と迷いが汲みとれた。
「先生も、気付いているんでしょう?」
「撫子さんの記憶について、ですか。」
「……その通りです。」
撫子さんがこの施設に入ってきたときには、まるで世界の終わりのような表情と後悔の念が見て取れたのに、今となっては、その表情は消え失せている。始めのうちは、ホスピスでの生活に絶望していたのだが、想像していたものよりも大分良かったのではないか、と安易に想像していたが、どうもそれは違うらしいと分かったのはつい最近のこと。彼女はだんだんと記憶を失くしていっていたのだ。・・・彼女のお兄さんに関するものを。
「話している時に気付いたんです。きっと撫子は彼女のお兄さんに対して、何かとてつもない罪悪感を抱いていたんだと。事前資料には彼女の兄は廃人同様になったとありました。・・・多分、そのことなんでしょう。」
「私も、うすうす感づいていましたが……。そういう事でしたか。では、やはり会わせない方が良いですね。」
……会わせてしまったら、きっと彼女と、彼女の兄は壊れてしまう。……何故だか、彼女の笑顔を壊したくない、とそう願う自分がいることに心をかき乱され、イラついていたあの頃が思いだされた。でも、今は違う。それがどういうものか、分かったから。
「私が撫子さんのお兄様の相手をしますから、竜胆先生は撫子さんの事を見ていてあげてください。」
「分かりました。…ああ、人が来ましたよ。あれが撫子のお兄さんですかね。それじゃあ。桔梗先生。」
そう言い残して、竜胆先生は屋上から去っていった。その瞬間、急に吹いてきた突風は自分の決心を揺るがすような、はたまた、これから先の未来を暗示するようなものにしか思えなかった。


「初めまして。」
「初めまして。貴方が萩沼先生ですか?」
「ええ、そうです。ここに居る方たちからは、桔梗と呼ばれていますが。愛染柊さん。撫子さんのお兄様で間違いないですね?」
「そうです。」
初めて目にした彼女の兄は、自分が思っていたよりも元気そうに見えた。
「撫子は……撫子は元気ですか!?………俺、ずっと心配で……」
「今は大分元気です。ここに来た当初は、とても暗い表情でしたが、今はとても明るく、発作もそんなに起きていませんから。」
「撫子にっ・・・、撫子に一目会わせてもらえませんかっ!」
くると思ったその願いに対し、用意しておいた嘘で答えを返す。
「すみません。今日は前々から用意してあった検査の準備日となっているので、面会を許してしまうわけにはいきません。」
「でもっ、俺が電話した時には、撫子に会えるって!」
「非通知設定になさっていたでしょう。ですから折り返しの電話ができなかったんです。」
「でもっ…!」
彼が非通知設定にしていた事や、彼女に検査が有る、といった事は、本当のことだ。真実に嘘の尾鰭をつけただけだ。結果的には嘘をついてしまった事に対する罪悪感はあったけれど、そんな事よりも、彼女のお兄さん、柊さんの切望に、胸を抉られるような深い切なさと、申し訳なさのほうが、遥かに優っていた。
「でも…。」
柊さんの声のトーンが落ちた。その声色は、これから何か大変なことが起こるのではないか、というような不安を抱かせた。
「でも…、それ、嘘でしょ、先生。」
「嘘じゃないです。撫子さんには確かに検査が有り・・・」
「俺の言いたい事はそんな事じゃない!」
彼は、応接室の少し低めの机を思い切り叩いた。
「俺は知ってるんだ!撫子の検査に準備日なんてない事、本当は面会も出来るっていう事、それに」
彼は一息ついて、口を開いた。
「撫子に俺の記憶が無いっていう事!」
その言葉を聞いた瞬間、深く悟った。自分の愚かさと、彼の強さに。彼は自分の犯してしまった罪を認め、そして、受け入れていたのだ、この現実を。ふと、外を見遣ると、いつもは気にしていなかった鉄塔に鳥の巣があるのが見えた。普通は、こんなところに巣作りなんてしない筈だ。そして、その巣のまわりに親鳥が飛んでいた。…中にヒナでもいるのだろうか。そう思った瞬間。
まだ、小さなように思えたヒナが、巣から落ちてゆく。が、ヒナははばたき始め、すぐに、親鳥の少し上にある電線に止まった。そこで、はっと気付く。親鳥は、ヒナに巣立ちをうながしていたのだ。たとえ、外の世界に危険が蔓延っていても、飛び立たなければならないのだ。それが、宿命だから。
「分かりました。」
それに。
「撫子さんに、会いに行きましょう。」
有ったものを、無いように扱われるのは、本当につらいことだから。
「良いんですか!?」
「彼女が柊さんの事を忘れていたとして、その時の覚悟は、もうとっくに出来ているのでしょう?」
「はい。」
彼の言葉からはみじんも迷いは感じられなかった。そして、いままで握られていた手は、それよりも強く力を入れられた。
「先生、ありがとうございます。」
「いえ。」
失ったものを取り戻すのは難しいけれど、それはもとは有ったものだから、取り戻さなくちゃいけない。もとの姿に。あるべき姿に。
「では、ここを出ましょう。」
その言葉にうなずいた彼は、素直に私の後をついてきた。これから何が起きるか、どうなるかは分からないけれど。

――そして、二人の歯車は、また動きだす。あの頃のように。