寝転がって見上げた冬の空はなんというか、腹が立つほど綺麗だった。
(あぁ、今日の夕飯はなんだったっけか)
空に浮かぶ暢気そうな鯨型。
(煮物じゃなきゃ、いいんだけど)
僕は手を伸ばす。
(それにしても寒ぃな)
指が鯨を掴もうとして空を切った。
「つまんねぇの…」
「何が?」
空も雲も掻き消えた。
横から僕の顔を覗き込んだ奴がいたからだ。
「やっほー」
ハルカ先輩はへへっと音のしそうな顔で笑った。
「…あんた本当にいつの間にいるんすか」
「細かいことを気にしたらあかんよ青少年」
いや細かくないし。
そんな僕の心の声を無視して―実際聞こえちゃいないんだろうが、先輩は隣に腰掛ける。
「いつになく退屈そうだねぇ」
「そースか?」
適当に答える。何が気に入らなかったのかは知らないが先輩はわざとらしく眉をしかめた。

「そーですよ」

ぴっ、と人差し指を立てる。
「常々若者らしい覇気が足りないとは思ってたけど今日のしょーちゃんはもうダメ。駄目駄目。生気が感じられないよ生気が。ちなみにロッテリアのシェーキは関係ないよ」
「別にうまくねぇっすよ先輩」
「あう」
先輩が一言うめいた。
「…サンクチュアリー」
「うまくないです」
二度目。

「…みー!」

突如として屋上の床を転がり始めた先輩はまるでじゃれる犬のようだ。

「先輩、落ち着いてください」

僕は先輩を起き上がらせようと先輩のすぐ横に立つ。ちょうどさっきと逆の構図で。

手を差し伸べる。

「ほら」

先輩は僕の顔をまっすぐ見つめたまま、動こうとしなかった。

「…先輩?」

「ねぇ、本気でなんかあった?」

どきり、と心臓が鳴る。

「すっげー退屈な顔、してるから」

そう言った先輩の目がやけに自信満々で、なんだかかなわないと思った。

「…やめたんです。サックス」

僕は差し伸べた手をひっこめて空を仰ぐ。やっぱりむかつくぐらい冬の空は綺麗だ。

「へ?吹奏楽部、やめたってこと?なんで?あんな一生懸命やってたじゃん」

想定外だったのか、先輩の声はオクターブくらい高かった。あぁ、やっぱり気づいてないんだなと心のどこかでつぶやく。

「先輩―、」

どう伝えたらいいのかわからず少し言葉を切る。本当に言っていいのか、それもまだ迷いがあった。

「今、もう12月なんすよ」

その意図がわかったのか、先輩が息を呑むのが聞こえた。

「…あー、そっか。そういう、時期なんだ。いつ?」

どんな表情をしているのかはわからない。ただ、声が少し震えている。

「こないだの大会で最後です。…予選落ちでしたけど」

「…―?」

漏れ聞こえた先輩の呟きが、小さすぎて聞き取れない。

「なんですか?」

「ん…これからはさ、サックスやらないの?」

ふと見てみれば先輩は起き上がってひざに顔をうずめていた。先輩の目が、不安そうな色を湛えているのなんて初めてみたかもしれない。

「昨日、久々に吹いてみたんですけどね、ボロボロでした。そんなたってもいないのに」

やっぱ、俺、才能ないんだなって。

僕の笑った声がやけに乾く。さっきまで感じていなかったのになんだか酷く寒い。指先がかじかんでろくな感覚がなくなっている。

沈黙。

「…私、帰るね」

すっくと先輩が立ち上がった。重い空気を裂くように。裂かなければならないかのように。

そして言った瞬間、変化は劇的だった。先輩の足が存在していたところがすぅっと溶けて透明になる。僕は驚いたりしない。先輩が帰るときはいつもこうなのだ。大体そんなところに驚くのだとしたら、なんで三年生の、この学校の最高学年の僕に先輩が存在しているのかとか、僕が屋上に来てから誰一人屋上のドアを開けたりはしていないのにいつの間にか先輩があらわれたとかそんなつまらないことを気にしなくてはいけなくなる。そんな暇はない。ハルカ先輩はいつも唐突に現れて唐突にいなくなる人なのだから。

「―いつまで会えますか?」

僕は先輩へ問う。先輩の足はほとんど消えて、スカートの先が見えなくなり始めている。

「…わかんない」

ハルカ先輩は今にも泣き出しそうな顔で笑った。胸元のリボンみたいにくしゃくしゃな顔で。そういえば今の女子の制服は数年前に変わってもうリボンなどついてないことをふと思い出した。先輩はそんなことを知っているのだろうか。

「しょーちゃん」

先輩が不意に僕の名前を呼ぶ。なんですか、と小さな声で僕は返す。

「あのさ、ボロボロでもいいからさ、今度サックス吹いてよ」

今度。なんて重い言葉だろう。それは、まだ会えるっていう意味。

「・・・わかりました。先輩、」

先輩の腰がもう消えている。

「ん、何?」

ボタン、リボン、襟、次々と。本当に先輩自体がいなくなってしまうように。

「―いえ、なんでもないです」

頭に浮かんだ疑問を僕は聞こうとして聞くのをやめた。先輩は何故か少し微笑んで、

「ばいばい、しょーちゃん」

そして、そのまま屋上からいなくなった。



 先輩のいない屋上に一陣の風が吹く。改めて見てみると、こんな寂しいところはないといくらい屋上は閑散とした所だ。フェンスの外に目をやってみる。おもちゃみたいなクレーン車が何かを組み立てていた。確か、鉄塔が出来るとか聞いたような気がする。完成予定日は五月。きっとそのころ僕はこの屋上にいないだろう。先輩は…どうだろうか。

「…」

僕は少し息を吐く。昔、まだ僕が一年生の頃、僕と先輩は、何時間でも屋上で話していた。

今、先輩はほんの十分も屋上にいられない。本当に、終わりの時が近づいているんだと思う。先輩が何者なのか、そんなことに僕は興味がない。ただ、先輩と話せなくなるだろうことが悲しかった。

(君、サボリ?退屈そうな顔してんね)

初めてハルカ先輩と話した記憶が蘇る。かえって今このときより鮮明なのは何故だろう。

同時に、さっき先輩に聞こうとした疑問がもう一度脳裏をよぎった。

(私の名前はハルカ。ハルカ先輩と呼びたまえよ)

苗字なんか知らないけど。先輩、ハルカってどんな字を書くんですか。

そう心の中で問いかけて、答えは帰ってきやしなかった。

冬の澄んだ空気が、やけに肌に痛い。