「撫子さん。入りますよ。」 「桔梗先生ですか!?」 先生にあまりにも懐いている撫子に、少しだけ胸がチクッと痛んだ。 「そうですよ。今日は撫子さんに面会したいという方が一人来ていらっしゃるん です。」 「どなたですか?」 「こちらの方です。」 そう言って彼は俺に来るようにという合図を送った。 「初めまして。」 俺の記憶が撫子から抜けていったのは、俺があまりにも自責し過ぎたせい。 そして本当に彼女の記憶に俺の姿が無いのなら、撫子にとって俺は赤の他人。知 らない人の一人にすぎない。 だから、初めましてから。 「初めまして。でも私、なんだか初めて会った気がしません。既視感でしょうか 。」 これはどういう事だろう。 確かに撫子は俺を忘れている。だがしかし。 これは深層心理なのだろうか。無意識の中では俺を覚えているのだろうか。 そんな儚い望みが浮かんで消えた。 「そうかも知れませんね。」 どんな話し方で返せば良いのか分からない。 今まで撫子が俺に丁寧語みたいな敬語を使った事なんてなかったから。 撫子の新たな一面の発見はそれができた嬉しさなんかよりも、遠ざかっていって しまった切なさの方でいっぱいだった。 「そういえば私、貴方のお名前を聞いていませんでした。教えていただけません か?」 一瞬躊躇する。 だがしかし名前だけで撫子の記憶に影響を及ぼすとは考えにくい。それにここに は彼も居るのだ。 彼は立派な医者である。 そんな彼が居るのだから不測の事態が起きても収集はつくだろう。 俺は口を開いた。 「柊と言います。」 「それは…苗字ですか?」 「いいえ、名前ですよ。」 ひいらぎさん。 撫子は小さく呟いた。 「何故だか懐かしい感じがします。本当に不思議です。以前にお会いした事が有 ったのでしょうか…。だとしたら、ごめんなさい。」 覚えていないのです。 そう言う彼女に俺は寂しさと悲しさでいっぱいになった。 所詮自業自得なんだろうけれど、今までの俺が抹消されているという事実が深く 刺さって。 「覚えていなくても仕方ないでしょう。貴女は血を流していた俺にハンカチを貸 してくれただけなんです。これは貴女にとっては当然の事なのでしょうから。」 「そうだったんですか。その時の傷はもう治ってますか、大丈夫ですか?」 心配そうに俺を見上げる撫子。 それには明らかに「他人」を気遣うニュアンスが含まれていて、喪失感だ。 「ええ、もう大丈夫です。半年位も前の事なんですから。」 俺はそう言って撫子に腕を見せた。痛々しい古傷が姿を見せた。 これは消えない自責の痕。 過去の出来事が現実であった事の証。 「でも、痛そうです。」 つかの間の静寂。 それを破ったのは、 「面会時間はあと10分です。」 先生のやけに無感情な声だった。 「ありがとうございます、先生。」 「いえ、当然の事をしたまですよ。ところで撫子さん。」 「はい?」 先生は病室に入った時の穏やかな声ではなく、無感情というよりはいかにも医者 だというような厳格な声で撫子に呼び掛けた。 きっと先生はいつも患者(入所者というべきだろうか)には穏やか声をして、穏や かな物腰なんだろう。 撫子の病室に来るまで何人かの入所者に話し掛ける先生を見たから何となく分か った。 だからこそ撫子は驚いたのだろう。その証拠に彼女の返事は確かにひっくり返っ ていた。 「本当にこちら方が誰だか分からないのですか。」 「え……。」 「この方は愛ぜ」 「先生!!」 思わず先生の声を遮ってしまった。 「何故遮るんです、柊さん。貴方は撫子さんが貴方の事を忘れていたとしてそれ を受け入れる覚悟で来たのではないですか!」 「それは……」 言葉に詰まってしまった。 そうだったのだ。俺はその覚悟で先生を説き伏せたのだ。 それなのに、なんだ。このザマは。 自分の情けなさに気付かされ、心底悔しさが沸き上がってきた。 「先生。俺から言わせて下さい。」 「どうぞ。」 それは想像したよりも遥かに穏やかな声。その声が俺に勇気を与えてくれた…… ような気がする。 「撫子、ちゃんと聞いて欲しいんだ。」 「柊……さん?」 少し、怖かった。 彼女に否定されるかと思うと。 それでもきっと進まないといけないんだ。 未来なんて分からないけど、暗闇の中でもがいてるけど。 元に戻そう。二人の歯車を。 「君には一人の兄が居る。」 「私に…兄が……?」 「そう。名前は愛染柊。」 「柊さん…?」 「この俺だ。」 しばしの沈黙。この静寂を破ったのは撫子だった。 「お久しぶり…です?柊……お兄さん?」 彼女はきっと今この瞬間、優しさという名の嘘をついたんだ。 それは撫子が完全に俺を覚えていないという確実な証拠。 俺を兄として覚えていないからこそ、俺を兄として受け入れられるのだ。 例え話をしよう。 一人の娘がたった一人の大切な兄を亡くしたとしよう。そこに「新しい」兄が現 れたら。「僕が兄だよ」と言って現れたら。 娘は受け入れられないだろう。それは娘が確かにたった一人の兄を想って覚えて いるからだ。 だから、撫子は結局俺の事など覚えてはいなかったんだ。その確かな証拠なのだ 。 「久しぶりだね、撫子。」 きっと先生もその事には気付いてる。彼は静かに言い放った。 「面会時間は終了です。」 一一そして、二人の歯車はまた動きだした。 …あの頃のように?