猫が死んでいた。
言ってしまえばそれだけのことだ。
いざ生気を失ってみると白の薄汚れたそれはぬいぐるみか何かだっただろうかと思えるほどに生きていた感じがしない。
そう冷静に分析する傍ら、これをどうにかしなければならないという衝動に駆られた。焦燥にも近かった。気持ちの命ずるままに僕はそれを持ち上げる。何故だかはわからない。ただ、庭にでも埋めようと思った。供養のためではなく。隠すために。何からだろう。
そんなことすらわからないまま僕は走り出す。猫だったそれを小脇に抱えて逃げるように。早く。早く。早く。

『36.7℃』


「『優しさという名の嘘をつく』…」
僕がそう呟いた時、彼女は独り言だと思ったようだった。少し間が空く。
「折島さんどう思う?」
「…あ、ら?もしかして私ですか?」
気付いて見開いた目は予想外に間が抜けていた。普段作っている癖に折島さんはこういうところが詰めが甘い。
「えぇと…『嘘という名の優しさ』じゃなくて、」
「うん。優しさという名の、嘘」
「それじゃあ、嘘なんですね。結局」
折島さんの足がぷらぷら揺れる。たいした高さもないキャンバス横の机が生徒会のない日に僕が美術室にいるときの折島さんの定位置だ。そこで僕が絵を描き終わるのをいつも待っている。
この間どうしていつもそこにいるのかと聞いたら、僕の事が好きだからだと言われた。
「優しさのつもりで嘘をつくってこと?」
「そう言われると、本人にとっては嘘という名の優しさなのかも知れませんけど
」
自分からは優しさのつもりでも相手にとっては優しさじゃない。
そう考えて見れば結構そんなものありふれている気がする。例えば、好きだと言われてわからない振りをした僕のように。
「それにしてもそんなこと急に聞くなんてどうしましたの?会長」
…そういえば、どうしてだったろう。
言われてみれば実は答えがどうであれあまり関係もない。
「うーん…よくわからないや。自分でも」
「…会長って天然ですよねぇ」
折島さんがため息をつく。それでもその表情はどこか嬉しそうで―、僕にはわからないけど皆が言うには恋と言うのだそうだ。本当に、僕にはその気持ちが理解できないのだけど―。
「折島さん、帰ろうか」
僕は筆をぴたりと止めて片付けを始めた。折島さんが怪訝そうな顔で僕を見る。
普段の彼女を考えると相当面白い部類に入る顔だ。
「?どうかした?」
「いえ、その、いつもより随分早いので」
確かにいつもならあと一時間は描いていたろう。僕はさっさとコートを羽織る。
「最近すぐ暗くなっちゃうから、危ないでしょ」
俄に折島さんの顔は真っ赤に染まった。こんな、安い言葉で。
「折島さん?行くよ?」
「え、あっ、ハイっ」
固まっていた折島さんは裏声で返事をする。そのまま駆け出した彼女を僕は少し愚かだと思った。



「夕焼け見るの久しぶりですね」
元々色素の薄い折島さんの髪はオレンジに染まっている。
「あぁ、いつも暗くなってから帰ってたから」
夕焼けは描いたことがないな、そんなことを考えながら適当に相槌を打つ。
「この時間ならあの白ちゃん、会えるかも知れないですね」
「うん、…白ちゃん?」
耳が聞き咎めた。
「会長と以前こうして帰った時に会った猫ですよ。日が落ちるのが早くなってか
らはめっきり見てませんけど」
脳裏で白が煌めく。茜色に染まった猫が欠伸をした。そうか、あの時の猫だったんだ。
ということは僕のあの時の、焦燥の理由は。
「…はは」
思わず笑いが込み上げる。気持ちを無視しておきながら泣かせたくないなんて何様のつもりだろう。それで守った気でいるのだろうか。
「会長?どうしたんですか?」
折島さんの不可解な顔。
「ううん、楽しいなぁ、って…あ、折島さんこっちだよね」
T字路で一度立ち止まる。
「あ、はい、では」
「うん、気をつけて」僕は自分の家へと続く角を曲がる。
「…会長っ」
後ろから折島さんの声がした。
「?」
「あの、」
折島さんの頬がしずみかけた夕陽に染まっている。
「私会長のこと、好きです、から」
―うん、知ってる。
「?僕も折島さんのこと好きだよ?」
僕は優しさという名の嘘を吐く。折島さんにも。僕自身にも。でも笑ってそう言う以外に僕にどうしろって言うんだろう。
「…そういうことじゃ、ないんですけど」
「?何か言った?」
気付かない振り。
「―いえ、なんでもないんです」
あぁ、そこで泣くのを堪えてそんな風に笑わなければ僕が君にちゃんと言うってこと、どうしてわからないかな?
「そう?じゃあ、明日」
「はい、また…」
ひょっとしたら彼女は今日家で泣くかもしれない。そう思って少し愉快でそれ以上に不愉快な僕のことを知ったら折島さんはそれでも僕を好きだと言うだろうか。
―屈折してるねぇ。
自嘲してるのになんだか笑えない。
今日帰ったらあの猫の墓でも建ててやろうか、思って吐き出した息はいつの間にか沈みきった暗い空に白く浮かんで消えていった。