まだ冬から抜けきってはいないものの、肌をさらう風が暖かみを帯びる頃。 昼下がりの東京・浅草にある墓地。 密集して置かれた墓石の間を三十路も後半を迎えようかと言う年の頃の男が線香も桶も持たず進んでいる。 墓石に挟まれた通路は狭く、しゃがむ事が出来ないので立ったままで墓参りが済ませられる様に墓自体が高めの台の上に設置されていた。 「そうでもしないと墓が入りきらない…。東京の墓地事情は住宅事情より深刻だな。」 男は眼鏡の奥の瞳を細めてお目当ての墓に書かれた文字を読む。 眼鏡の度はあっているし墓石に彫られた大きすぎる字が読みづらい筈もないので目を細めるのは彼が物を見る時の癖の様だ。 「狭いだろうな…しかも毛嫌いしていた親父と一緒の墓だ。」 男は皮肉げに笑って墓石に彫られた文字を触った。 「川島。」 男は自分の苗字と同じその名を低く吐き出す。 ※ 川島恭(カワシマ ヤスシ)は階下からの物音に無料配布のOL向け雑誌から目を上げる。 続いて聞こえた怒鳴り声に特定の人物が帰って来た事を半ば確信し、腕時計に目をやる。 時間は深夜2時を回っていた。 恭は溜め息を付くが、其処にあまり感情は入っていない。 ただ単に自分のすべき事に軽い嫌気がさしただけだ。 階段を降りていくとかすれ気味の大声が耳に付く、リビングを覗くと床に食器と食べ物がぶちまけられていた。 川島家では、今まさに怒鳴っている人物への対策で食器のほとんどがセラミック製であるのでそちらの被害は無い様だが、今日の夕飯だったシチューは流石にダメだろう。 「当て付けがましいんだよ!!俺が帰って来るまで飯食わねぇで待って恩でも売ってる気か!!」 喧嘩で腹筋を鍛えている為か、かすれの割りにはよく響く。 「近所迷惑だ…篤。」 恭が声をかけると恭の弟である川島篤(カワシマ アツシ)は視線だけを恭に寄越す。 黄と黒のオッドアイ。 昨日は赤と黒だった筈だ。 篤は中二の冬に喧嘩で左眼を悪くして以来片眼にだけコンタクトをしているのだが、それを五ヶ月程前からカラーコンタクトに代えこの奇妙な自己主張を始めたのだ。 「恭…」 低く唸った篤を見下ろしながら恭は考える様に眉間に皺を寄せる。 「随分と荒れてる。しかも酒臭い。お前は未成年だったな、まだ?」 「関係無ぇだろ…。」 篤は兄である恭をかなり苦手としているのか、暴れる事も怒鳴る事もせず問いに答えた。 「関係は残念ながら有るな…興味は無いが。」 恭はふと思い付いた様に目だけで天井を仰いだ。 「ああ、この前の彼女に子供を堕ろされてお前なりに落ち込…」 最後まで言わないうちに恭は顔を殴られて上半身を反らす、だがそのままとって返し篤の顔面を殴り付けた。 恭の方が打撃が幾分重かったのか篤の体は床に転がった。 「やられたらやり返す…子供の理論だが俺もお前と同じで気は短いらしい。」 恭は殴り付けた拳を解いて篤に差し出す。 それを振り払った篤は人を殺しそうな目で恭に食ってかかった。 「本当にてめぇは親父に似てやがるな!!」 「父さんが死んだ時お前は二歳だった、だから殆んど記憶は無いだろう。 お前の父親像の方が六歳差のある俺に似ているんだ。」 恭が八歳、篤が二歳の頃に二人の父は病死していた。 現在篤は十七歳の高校生、恭は大学の医学部の学生である。 「それとも今更ながらに怖くなったのか?死ぬ事が。」 恭は論理的とも言える思考回路をしていたが、あまり想像力は無かった。 篤の拳が先程とは比にならない重さで恭の顔に叩きつけられる。 がりっと嫌な音が顎を振動させると同時に今度は恭の体が床に倒れる。 「…歯が欠けた。」 恭は立ち上がると腫れた顔を苦痛に歪ませる事無く、あくまで静かな顔で篤に相対す。 「図星だった訳だ。存外心が脆いな?」 「てめぇ……」 殴ったのは自分の筈なのに何故か酷い敗北感を感じ篤は踵を返した。 「病院にキチンと帰れよ。うちの大学の病院は結構厳しいからな。」 恭の言葉に篤は玄関のドアを乱暴に閉じる事で答えた。 恭は軽く息を吐くと食器を片付ける母を見やる。 「母さんも病院で全部やってくれるから毎日アイツの夕飯を作っておく必要は無いんだよ。」 恭の言葉に母親は苦笑いをする。 「解ってるけど駄目ねぇ、何時病院を抜け出してくるか気が気じゃないわ…」 恭も表情を緩める。 「俺もだよ。」 ※ 「お前は面倒事しか起こさなかったし、俺を不快な気分にしかしなかったが…」 恭は風にスーツの上に着たコートを遊ばせながら、墓に話しかける。 「でも今から思えばお前は見ていて飽きない奴だった……でしょう?」 恭はそちらに目を向けず何時からか通路の入り口に立っている女性に声をかける。 「お気づきでしたかやっぱり。…でも私篤さんはあまり存じ上げないんですよ。」 恭は本気で驚いたように振り向く。 「そうなのか?私はてっきり…」 「篤さんを好いているとお思いでした?」 恭は素直に頷いた。 ※ 「あのっ…先生!307号室の患者さんは死んじゃうんですか!?」 貝塚陽子(カイヅカ ヨウコ)は言った後で「死ぬ」と言う言葉の重さに失敗した、と思ったが相手の白衣の男は意に介さない様だった。 「…私はまだ研修医ですし…。しかも彼は担当でも専門でもないんですけど?」 正直陽子はあまりその患者に興味は無かった、ただ恭に声がかけたかっただけだ。 その為少々言いよどむ。 「先生が私服の時にその患者さんの病室に入るのを見て…」 その言葉は事実だ、だから少しは気になってもいた、今回はそれを利用した訳だ。 一方の恭は意味が解らず目の前の少女を見返した。 確か、恭の担当患者の娘だ。 毎日見舞いに来る良い娘さんだと思っていた…ただそれ位の認識だった。 弟の篤は彼らの父親と同じく胃だか腸だかの末期の癌だ、しかも未だ若い為進行が早い。 どんなに良い方に考えても年を越す事はあり得ないだろうと言う状態だ。 そんな中で高校に通い続けさせる訳にも行かず、今は昔の様に病院を抜け出す事も無いのに…何故この少女は篤に興味を持って、しかも更に知りたがるのか? 「な、治るんですか!」 恭に解るのは相手が大真面目だと言う事だけだ。 「…治る」 何故か言ってしまった。 何となく少女の様子に恋心を感じとったからか、恭は半年も持たない嘘をついた。 自分でも明後日の方向の気遣いだと解っているし、事実関係は気遣いにさえなっていなかったが 「治るよ…」 恭は静かに繰り返した。 ※ 恭は陽子の顔に昔を思い出す。 葬式も終わり、篤の病室には違う人間が入って、母もどうにか気をまぎらわせてやっている、そんな時。 恭は陽子にまた会った。 顔を赤くして。 下を向いたまま恭の白衣を掴む少女に困惑したのを恭は覚えている。 そして少女は喘ぐように叫んだ。 許さない ―と。 「私知らなかったんです。篤さんが先生の弟さんで、しかも重病だなんて。」 「じゃあ、何で。」 「先生に声がかけたかったんです。」 陽子は桶の水を墓にかけながらきっぱりと言いきる。 「…不純だな。」 「ええ、少女期の恋に恋するうわついた気持ちで先生のプライバシーに踏み込んで…事実を知ってから後悔しました。」 陽子が線香を立てる手元を見ながら恭は口を開いた。 「では何故あの時許さない……と?」 陽子は恭に笑いかける。 「先生は誰かに責めて欲しそうでしたから。」 一瞬呆気にとられた恭に陽子は線香を持たせる。 「先生も立てて下さい。」 「君は…そんな不確かな想像で動いていたのか?」 「間違ってはいなかったでしょう。」 恭はぐっと我知らず唸り声を上げた。 「確かに……望んでいたかも知れないが…言われてみて気が付いたよ。人の死は背負い難いものだとね」 ※ 陽子は意図せず恭のプライバシーに踏み込んだ後ろめたさから、嫌われる事を覚悟で恭を責めた。 そこまでは良かったが、これからどうすれば良いか解らず白衣を掴んだまま動けずに固まる。 反応が無い。 「先生…?」 陽子は恐る恐る顔を上げる。 一瞬泣いているかと思ったが、恭は陽子と目があうと何時も通り顔から表情を消した。 「…悪かった」 「先生…」 恭は静かに笑って見せる。 「アイツを想ってくれて有難う。」 ※ 「優しさと言うなの嘘をついて…そんな歌有りましたっけ。」 「さあね…。」 恭は墓に背を向けた。 「先生、今日は暇ですか 」 陽子の声が背中にかかった。 「いや、これから学校に戻るよ。」 「そうですか…」 雨の前触れの様な少し湿った匂いがする。 「君が暇なら今日の七時以降は空いてますがね。」 恭の言葉に陽子は笑って彼の隣に駆け寄った。 「嘘という区分の優しさ…」 「え?何ですか?先生。」 「何でも無いよ。」 恭は声が震えるのを押さえる事もせずに笑っているとも泣いているとも取れる表情で空を仰いだ。