薄明るい空の下、僕はとある趣味の悪い…とまではいかなくとも、なんとなく色彩のおかしい小綺麗なアパートへ向かっている。
隣には今にも倒壊しそうな木造のアパートが、大家さんの家を挟んで建っている。中々立地条件はよく、駅や公園なんかもそこそこ近い。
あっ、あのもじゃもじゃ頭は大家さんだ。
 
「おはようございます」
 
「あぁ、おはようございます。…そうだ、あの、えーと、いきなりで大変申し訳ないのですが、一つお願いをしてもよろしいでしょうか…」
 
何か思いついたらしく、真剣な目をしてこちらを見てくる大家さんは、正直飢えた獣のようでちょっと怖い。うぉ、手握られた。
 
「柚木さんに、家賃払うようあなたからも言っておいてください!いやもうむしろ貴方が払って下さっても結構ですから!お願いしますっ」
 
…大家さんもなかなか大変みたいだ。
 
  † † †
 
朝6時半、アパートの一階。『12号室』と書かれたプレートが下がる部屋に僕は辿り着いた。
一応呼び鈴は鳴らすけれど、反応はなし。予想の範囲内だったので特に気にすることもなく合い鍵を取り出す。
 
"ガチャガチャ、ガチャリ"
 
「お邪魔しまーす」
 
形式的な挨拶をして中に入ると、
 
"ふに"
 
…何か踏んだ。
嫌な予感を覚えつつ下を向けば、そこには。
 
この部屋の主が俯せになって倒れていました。
 
「…全く、またなのしぃ姉?心臓に悪いからちゃんとベッドで寝てよね」
 
初めの頃こそ度肝を抜かれたが、今では慣れっこだ。軽く突っついてやれ。
 
「…う゛ー」
 
「いや、威嚇されても、ね?さっさと起きて顔洗ってきてよ。今からごはん作るから」
 
彼女は、"ごはん"という言葉にぴくっと反応したかと思うと、俊敏な動きで洗面所に姿を消した。
 
  † † †
 
柚木史宇(ゆずきしう)は、いくらものぐさで生活能力が欠如していておまけにずぼらでも、見た目だけは理想の女性だった。
百合の花びらのように白い肌は瑞々しく、しなやかな肢体は完璧な曲線を描いている。
ややつり気味のきらきらした瞳は神秘的な金緑色で、ふんわりカールした髪は艶のある烏の濡れ羽色。
そんな彼女は、僕、新名日向(にいなひなた)の年上の幼なじみだったりする。
そして何故僕がフェミニストで女性に優しい大家さんに半分恐喝されながら毎日朝っぱらから彼女の部屋を訪ねているのかというと、今は離れて暮らしている彼女の両親に頼まれているからだ。
『たまに』様子を見に行ってやってほしいと。
まぁ、本当はそれだけではないのだけれど、とりあえずは…
 
「毎日来なきゃこの人確実に死ぬもんなぁ…」
 
「何溜め息つきながらぶつぶつ言ってんの。幸せ逃げるぞ」
 
よくそれだけ口にものを詰めながら普通に喋れるものだと僕が感心しているうちに、地獄耳の彼女は朝食を食べ終えた。
 
「ごちそーさま。…うーん、やっぱり日向のごはんが一番おいしい」
 
満足げにそう言われると、毎日作る甲斐があるというものだ。
 
「いつもご飯作ってくれて、起こしてくれて、掃除してくれて、ありがとね日向」
 
ずきゅーん。まさに花のような笑み。
普段は僕が尽くすのが当たり前とでもいうような顔をしているのに、急に子供みたいに無邪気に、それでいて艶やかに笑うから。
思わず見惚れてしまい、その後、洗濯までしてくれれば言うことないんだけどなー、という言葉が続いていたのは耳に入らなかった。
 
  † † †
 
「それじゃあ僕は学校行くけど、ちゃんとお弁当持ってってね!あと戸締まり。ゴミは出しといたからっ」
 
なんだか僕、今すぐ主夫できそうだなぁ、とか考えつつスニーカーを履いていると、
 
「いってらっしゃい、ひーちゃん」
 
…頬にやわらかい感触。
 
「っっっっっ?!」
 
「どしたのそんなに目見開いて。ただ、いってらっしゃいのちゅうしてあげただけじゃない」
 
この人、素なのか確信犯なのかわからないから厄介だ。
 
「ほら遅刻遅刻!」
 
時計を見ると、針はいつもより90度ほどすすんでいて。
 
「やっば!いってきまーすっ」
 
「…赤くなっちゃって、かーわいい。やっぱり絶対将来は私のお嫁さんにしなきゃね。早めにプロポーズでもしとこうかなー」
 
僕は彼女がそんな(僕にとっては大変不名誉な)将来のことを考えているとはつゆ知らず、駅に向かって全力疾走していた。
 
  † † †
 
これが僕の、愛しくて平和で、ちょこっと変わった1日のはじまり。