築40年で風呂がなくてボロボロ。
どうして『僕』はこんなアパートに住んでるんだろう。
 
ああ、そうだ、お金がなかったからだ。
 
 
 
 
 
「あ、大家さん」
 
夜の9時に見慣れた後姿(もじゃ頭)を見つけてついつい声をかけてしまった。
振り返った彼。月に眼鏡が反射して一瞬刃物のように見えた。
(この人も謎だよなあ)
あの新築のアパートも管理しているのにどうしてボロを売り払ったりしないのだろう。
 
「長乃さん、こんな時間にどこへ行くんですか」
少し先にいた大家さんに追いつくと同時に聞かれる。
「それはこっちの科白ですけど」
「ああ、そうですね」彼は怒りもせずに、「僕はちょっと銭湯にでも」
「一緒じゃないですか!」
 
びっくり。この人も銭湯行ったりするんだ。
その割に今まで会ったことはないなあと考えながら秋の夜風に体をぶるっと震わせた。
 
「少し冷えてきましたね。早く銭湯であったまりましょう」
「…大家さんは、よく行くんですか?銭湯」
「たまにですけど」
大家はちょっと顔を赤くして答える。どうやら照れてるよう。(本気で謎だ…)
 
「たまーにさびしくなるんですよ。ほら、僕も一応一人暮らしだから。長乃さんもたまにさびしくなって銭湯とか行きたくなるんでしょ?」
「いや、僕は単にお風呂がないからで「あー長乃さんボロの方ですもんね」
「そうなんですよあのー、ボロの方ってもっとよくできないんですか?改築とか「あー、でもボロはボロでよくないですか?」
 
…何なんだこの人。
 
「あのですねえあなたは一軒家でいいかもしれないけどこっちは真冬も銭湯行かなきゃいけないしいろいろ大変なんですよ」
「いいじゃないですか銭湯」
「はあ、まあいいですよ。改築なんかして家賃高くなっても困りますし」
「長乃さんはお金貯めてるんですか?」
「え、あ、まあ」
どうしよう、これ以上深く聞かれたら、
 
 
「ふーん、そうなんですか」
大家は何も聞かなかったかのように月を見上げた。
その眼鏡はさっきよりもあたたかく見えて、
 
 
「手術、したいんです」
「……はあ」
「そしたら、大家さんとは違う風呂に入ることになりますね」
「…そうなんですか」
 
そのまま無言で歩き続ける。てくてくてく。単調なリズムにそのまま耳を傾ける。
『僕』という一人称がいつからか不自然な響きを帯びてきたこと。
ずっと隠していきてきたこと。
でも今は何も隠さなくても平気だとそのリズムが教えてくれる。
 
 
「人生いろいろ、ですよ」
 
ひとこと。それだけですか。
 
でもきっと隣の部屋の進藤さんだって新築に住んでる藤堂さんだってイライザさんだって誰だって何かしら悩んでるんだろう。
「大家さんもあるんですか悩みとか」
「んーまあそれなりにですね。でもアパートって不思議でしょう。たくさん人がいるはずなのにみんな独立した空間を持ってて、僕にはそれくらいの距離が一番ちょうどいいんですけど。
でもたまに誰かと関わりたくなる。そういう時に隣に遊びに行ったりできるとこっていいじゃないですか。特にボロかったりしたら気兼ねなく行けますし。
だから、長乃さんもいつでも遊びにきてください。悩みなんて二人で分けたらちっぽけなもんですよ」
にかっと笑う大家さん。
「そうですね」つられて笑って「ボロくても日当たり良好ですし?」
「平和ですし」
 
 
 
うん。そうだ。難しく考えることはない。
自分のためにお金をためてアパートに住んでて大家さんの家に招待されて平和な暮らし。
 
「それが一番大切なことですね」
 
今日はゆっくりつかろう。