ベージュ:本来は、染めていない羊毛での毛織物をベージュと言った。色名としてのベージュはその織物の色、つまり、極めて薄い黄色ないし茶色である。
 
 

視界が開けた。
 
「ここか」
 
透き通った太陽。熱をそそぐ空。表情を変える雲。
 
陽射しがまぶしかったから、僕は腕を眼前にさらした。産毛がきらきらと光る。その光はたぶん、神様からの恩恵。
この場所をおしえてくれたのは、一人の老人だった。
何十年も昔に出会ったその人はこの場所を示す言葉以外何も言わなかった。
 
それを信じてついてきた僕もどうかしてると思う。

腕を下ろすとまぶしい光が目に入って、僕は瞳をきゅっと細めた。

 
むかし、死んだ人がいた。

すこししか、会えなかったひと。
 
 
*
 
価格の高騰により食料を手にすることすら出来なくなった人類は自然と数を減らし、滅亡も余儀なくされていた。
 
僕たちが生まれたのはそんな年だから、子どもは邪険に扱われた。

だから僕は親を知らない。殺されなかったのはラッキーだった。そいつも同じ。他の人間も、たぶん。そういう子どもだったから、僕たちは地下街で育った。
 
開発の途中で放り出された、地図からも忘れられたような商店街。そこを住みかにした。食べ物や衣類には困らなかった。でもそれは体の大きい子の話だ。他の弱い子ども、例えば僕みたいな人間は、いつもおなかをすかせてふらふらしていた。
 
 
『――どこに、行くの』
 
 
声をかけられたのは、皆が寝静まった夜。
こっそり、外へ食べ物をさがしに行く途中だった。
少しくらいなら、大人の食べ残しがある。それをさがしにいこうとしていた。
多少気を立たせて振り向くと、小さい塊があった。
地下街だから顔の判別は出来なかった。それ以前に、顔を覚えてすらいない。
 
『外』
 
塊に向かって吐き捨てると、再び歩き出す。
 
『どうして』
『関係無いだろ』
『食べるもの、取りにいくの?』
 
足を止める。
 
『どうして』
『だって、わかるよ』
 
君のこと、見ていたもの。
 
塊が立ち上がった気配がする。小さいように思えたのは座り込んでいたかららしく、それは僕とそう変わらなかった。
 
『危ないよ』
『だから、関係無い』
『違う』
『何が』
『…わたしが、取ってきてあげる』
 
何を言われたのか、一瞬分からなかった。
 
『取ってきてあげる』
『…嘘を、つけ』
『嘘なんてつかない』
 
だから、ここで待ってて。
 
それはそう言った。
 
『なんで、そうする』
『わからない』
 
返ってきた答え、
どうしてか、信じてもいいような気になった。
 
『…待っててね』
 
それは、すぐに闇を駆け抜け、すぐに戻ってきた。
持ってきた食べ物を分け合うと、なんだか知らないけれど幸せな気持ちになった。

 
 
それから、よくそれと話すようになった。
話すのは決まって夜。地下だから明かりはない。手を絡ませて、お互いがお互いであることを確認する。そうして、話が始まるのだ。
 
話していて分かったことは、そいつが女の子であるということと、同じように食べ物に難儀している、それだけだった。顔も知らない。名前も知らない。でもそれでいい。僕たちはそんなものよりも面白い話を、していたからだ。僕より年上らしく、そいつは外の世界の話をした。すこしだけ外にいたことがある、と言うそいつのその話は、僕の心に染みた。 
 
雲の斑点を散らした青い空、きらきらと光るさんご礁、紫色から赤、ピンク、青へと変わる紫陽花の花、雨の日に空を低く横切るツバメ、さわさわと風が葉をゆらしそこから木漏れ日がやさしくさしこむ初夏、真っ赤に実った林檎の実……
 
僕は見たこともないのに、さんご礁の海や木漏れ日の森を創造し、毎日頭の中でそこに行っていた。
 
そいつのする話が、大好きだった。

 
『――ねえ、知ってる?』
 
唐突に言われたのは、まさしくさっきまでしていた話が終わったその後。
ずっとつないでいる手をくっと握り返されて、話が始まった。その時はというと、僕はとっくに想像を始めていて、わくわくする気持ちにひたっていたのを邪魔されたような感じがしたから多少不機嫌に答える。
 
『何を?』
『ひとのからだの、一番大きな臓器』
 
つまらなさそうな話だった。難しそうな響きだったから挨拶代わりにうん、と相槌を打つ。そいつはそんな様子も気にしないで、続けた。僕のことが見えていないように。
 
『からだのなかには、からだをつくっているものがある。それを器官って言ってね、とくに動物のものは臓器っていうの』
『その中で一番大きいの、なんだかわかる?』
『それはね、』
 
皮膚、なんだ。
 
そいつは言った。
 
僕は、退屈でぶらぶらさせていた足を、止めた。

何も感情のこめられていない言い方が、珍しかったから。
『外からのいろいろなものから、からだを守るのは皮膚なの』
 
皮膚、分かる?そう言ってそいつは自分の細い腕の皮を引っ張った。

僕はうなずく。
 
『こんな薄い色で、薄っぺらいこれがわたしたちを守ってる』
『不思議だよね、それに守られてる、っていう事がわかるのは』
『たぶん人だけだよ』
 
守られてるから、ひとなんだね。

僕は、あいまいにうなずいた。

そこで、いつもの通りなんともないように、別れた。

 
 
 
死体を見つけたのは、その話が終わった後の朝のことだった。朝だったかどうかはわからない。昼かも、夜かもしれなかった。
手を絡ませて、昨日と同じ手だとわかった。
涙は出なかった。
 
*
 
しばらく進むと、湖が見えた。

さざめく波。
きらめく水面。
僕が立っている小高い丘から、鳥瞰で見えるクリスタルブルー。
指で作った環に収まるほど小さい湖。
太陽と雲が、映り込んでいる。
 
――あれから。
間もなく、あの地下からは誰もいなくなった。僕以外。
おそるおそる上へ出てみた。
そこには、荒れ果てた街と――澄んだ、自然。
 
誰も、いなかった。
 
僕以外にも何人か人はいたが、すぐに、いなくなったようだ。
 
この自然とともに朽ちる――そう言った老人が、この場所を教えてくれた。
あの老人は、どうしているだろう。
何十年も経った今。
 
彼もまた、いなくなったのだろうか。
 
 
 
誰も、誰も、いない。
僕以外。
 
 
一人の僕は今、何なのだろう。
 
 
 
 
――湖をもう少し近くで見たくなって、歩を進めた。
一歩、一歩――
 
草が生えていないところに踏み出したとき、
 
 
足を滑らせた。

 
ザザザザザッ、ザザザッ!
 
ざりり、といやな音がする。皮膚が切れたものだろう。そんなことより、
 
――落ちる!
 
ゆるやかに見えた丘は、容赦なく僕を滑り落とす。
恐ろしいスピードで。
 
 
ザザザッ!ザッ!
 
 
目と鼻の先に、水面が見える。
足を突っ張ってみたが止まる気配はまったく無い。
 
 
ズッ、ザザザッ、ザザザザッ!
 
 
阿呆のように宙を蹴る爪先。
流れていく土、小石。
擦れて血を出す指先。

 
止まれ!

 
近づいていく地面。
さかさまになる頭。
かばおうとする両手。
 
 
 
止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ!!!
 
 
 
ザザザザザザ、ザッ、ガスッ――
 
 
止まった。
木の幹に引っかかったらしい。
 
ぜえぜえと、息をした。
体中が痛い。
 
はあはあと吸い込むたびに口の中の土が喉にまわりこむ。
咳をした。
その空気が惜しいと言わんばかりに、また吸い込む。
咳をする。
吸い込む。
咳をする。
吸い込む。
喉が熱く、なってきた。
熱を吐き出すように、何度も、何度も、大きく咳をする。
「ふぁっはっ、がぁっ」
何度も、何度も。
 
やっとそれがおさまって、僕は仰向けに寝転んだ。
呼吸は乱れている。
心臓も早鐘を打っていた。
 
「はっ、はっ、――うっ」
大の字になる。
「うっ、ぅ…くっ」
手をかざした。血が、出ている。
指の隙間から太陽の光が、さしこむ。
 
 
光。血管。血液。骨。そして、

 
真紅を守る、薄い、黄色い皮膚。
傷つけられた、それ。

――からだのなかの最大の臓器は、皮膚なんだって。
声を、思い出した。
からだを守ろうとするもっとも大きいものなんだ。
だからさ、守られてるから、

――ひと、なんだね。

涙が出てきた。

僕は、
僕は、
どこに、来たのだろう。
 
 
腕を、目の前にかざした。
光は、見えなかった。