夏の夜だ。―田舎の。
だるいくらいの風が僕の額を撫でている。走ってそのまま体ごと溶けてしまいそうな視界に不意に彼女が入る。
僕は畦道で二、三歩踏ん張って彼女に駆け寄った。
「こんばんは、千夏さん」
「―よう、若僧」
振り向いた彼女の第一声はいつもと同じだ。どことなく気だるいが涼しくて耳に心地好い。
「…鹿田ですけど」
その妙なくすぐったさに耐えられずに悪態をつくと、千夏さんは声を上げて笑った。
「シカダ、なんて蝉みたいで落ち着かないじゃないか」
「だからって何も若僧じゃなくたっていいじゃないですか…」
正直なところ僕には鹿田の何が蝉なのかはちっともわからないのだが、なんとなく不本意な気がした。
そうだ。名字で呼ぶのが嫌なら名前だって。
…名前…。
「…今日暑いですよね」
汗ばんできた額を拭って道の脇を見る。田んぼがあるはずのそこは今はとろりとした闇にとけてただ蒼かった。
「そりゃね。夏だから」
何でもないことのようにしれっと言い放つ千夏さんの額にもやはりじんわりと玉が浮かんでいる。
「今日は何処まで行くんですか?」
僕が聞けば、
「山の方まで行こうかな。ま、飽きたら帰るけど」
千夏さんが答える。
「…さすがに危なくないですか?」
「何が?」
「や、女のひとがこんな夜にふらふら…」
にやり。千夏さんの口の端が上がる。
「おー、ナイトだ、若僧の癖に」
「…鹿田ですってば。変態に出くわしたらどうするんですか」
「どうしようかな。初対面の人のことは会ってみなきゃわからないからねぇ」
いつものように飄々と―そう、この人はいつだって飄々としている―笑って今日も今日とて日課に勤しもうと歩き出す。
「千夏さん」
その背中を呼び止めると千夏さんは顔だけで振り返った。

「見つからないと思いますよ」

その瞬間夏の風が不意に涼しくなったかというとそんなことはなくてやはりただむわっとした熱気が顎を撫でるだけだった。
「…なんだ、気付いてたのか」
千夏さんの右耳についた片方だけのピアスがゆらゆら揺れる。
「なんでわかったの、ピアス探してるって」
「千夏さん大事そうにたまに右耳に触るでしょ…あとは、まぁ、なんとなくですけど」
千夏さんは、ほー、と納得したんだかしてないんだかわからない声を出して、僕に背を向けた。方向から言って帰るのだろうか。
「…これさぁ、旦那にもらったんだよね」
「は?」
歩きながら千夏さんが言った言葉を、一定の距離を保つように歩いて追いかけながら聞き返す。
「バツイチなんだよ、私」
泣き笑いのような顔で少し千夏さんが僕を見た。
「その…だんな、さんは…今は」
「どこでなにしてんだか知らないけど、どっかでは生きてんじゃないかな。多分今は外国かもね」
「あの…なんで……あ」
言ってからしまった、と口を押さえる。千夏さんは少し笑っていいよ、と言った。
「んー、別に普通の夫婦みたいにさ、浮気したとか、好きじゃなくなったとかそんなことじゃないんだよね」
そもそも最初から始まってなかったのだ、と千夏さんは言った。
夫婦にも恋愛にもなれなかったのだ、と。
「変わったヤツだったしなぁ…。なんかね、芸術バカっていうのか。人間味に欠けてたな。そういうとこが好きだったけど。
数年前に『明日からヨーロッパに行くぞー、無期限で』とか言ってそれっきりだよ」
その日のうちに離婚したけど、と千夏さんが付け足す。
「そう…ですか」
僕はもうそれ以上なんと言ったらいいのかわからなかった。
「…もう探すの、やめるわ」
十字路で立ち止まって、千夏さんは振り返った。
「見つかるつもりも、見つけるつもりももともと無かったしね」
にっこりと、千夏さんは笑う。
じゃ・私こっちだから、と十字路を右折した。
「千夏さん」
その背中を呼び止める。
「んー?」
振り向いたその顔を見たら、なんだか息苦しくなって、何を言おうとしたかもぐちゃぐちゃに掻き乱された。
「…おやすみなさい」
絞り出した声はあんまりだった。
「おー、お休み若僧」
ふんわりと揺れる茶髪が闇に溶けてなくなった。

「…っ、…っ…っ!」
叫び出したくなる気持ちを抑えるように歩調が加速度を増していく。茹だる暑さが拍車をかけた。
(なんでそいつなんだ)
最初に思ったのはそれだった。
(なんで千夏さんにあんな顔させるんだよ)
その次には憎しみがふつふつと沸いてきた。
(…僕だったら、そんなの絶対にしないのに)
最後にそう思ったら内側から締め付けられるような変な感覚がした。
僕だったら。
その選択は不可能なのだ。
彼女は10近くも年上で。
僕はいつまで経っても『若僧』で。
  僕は不意にうずくまって泣き出した。
この得体の知れないどろどろとした恋心が黒色だとは僕は思わない。
例えるならば夏の夜みたいな紺色だ、と最後の意地のように僕は思うのだ。