さて。
 
天井には茜色の空。
地面はコンクリート。
近くには貯水槽。
半開きの扉。
 
学校の屋上に、私は立っていた。
おおいに私事だが私の青春の一ページとも言える幸せの一つが確実に逃げていった大惨事、要するにふられたわけなんだが、そういうことで頬をじんじん痛ませながら鉄の階段を上ってここにいた。
ある人がいることを期待して――、
 
「あのー…」
 
で、私は困っていた。
 
「何してんですか」
 
いや、いたことはいたんだけど。
 
「んー……」
 
覇気のない返事。
相変わらずだ。
 
「進藤先輩」
 
私は寝そべっているその人物に声をかけた。
 
「昼寝」
「夕方ですよ」
「じゃあ、転寝」
「そういうこと聞いてないだろうが」
 
学校の屋上に寝そべること。
なんだかそれがこの人、進藤瑛太先輩の日課らしい。
とくに放課後がお気に入りのようだ。放課後は鍵がかけられて入るのが面倒だということは知っていたので、前にどうしてかと聞いたら煙草みたいなものだよ、と答えられた。よく分からない答えだった。(ということは彼は煙草を吸ったことがあるということだろうか。学年は違えど風紀委員である私としては頭が痛い。)
 
さらっとした黒い髪は男子としては少し長めで、前髪を横分けにして流している。本人はこの髪を邪魔だの暑いだの言っていて、そのくせ切ろうともくくろうともしないのでこれまたなんでと聞いてみたら、好きなバンドのボーカルがこんな髪型をしていたので、と。箱に痛みをつめてどんどん積み上げる歌をつくったそのバンドは私も好きだったので非常にいいセンスだと思ったこと。それが彼との付き合いのきっかけでもあったりする。
その髪の毛以外には男では低めの身長と、眠そうにしかし爛々と輝く瞳にしか特徴が無い。
 
私はため息をついて、尋ねた。
 
「なんでですか」
「趣味」
「そういうこと聞いてません」
「じゃあ、気まぐれ」
「減らない口だなオイ」
「お前は?」
「…野暮用で」
「ふーん」
「ぜんぜん、たいしたことじゃないんですけど」
「へー」
「まあ時間があったからっていうか」
「じゃあ帰れ」
 
……。
予想はしていたけど、にべもない。
 
「いやまあそうなんですけど」
「じゃあいいじゃんか」
「……」
 
寝そべったまま、こちらを振り向きもしない。
私はため息をついた。
こう言う人なのだ。他人に関心はない、という。
 
私は諦めて、その場を立ち去ろうと、
 
「ほんとに野暮用だって言うなら帰れ」
 
足を、止めた。
 
「……え?」
 
ゆっくりと振り向く。
髪の毛と、掲げた脚しか見えなかった。
 
「本当にどうでもいい用事ならな」
「……」
 
…こう言う、人、なのだ。
 
 
私は、ちょっと距離を置いて、コンクリートの床に座った。

*
 
「へー、なるほどね」
「随分軽いですね」
「セイシュン、セイシュン」
 
テレビではよく聞く言葉で、実際口にするには青臭すぎるワード。彼はそれを異国の言語のように呟いた。
 
「そりゃそうですけど実際やられるとつらいものがありますよ」
「青春の一ページ」
「…俺さっき同じこと思いました」
「そうかい」
 
やべ。
 
いまだに、空を見続けている彼を眺めていたら、ひいていない頬の痛みで、その瞬間を思い出した。

突然ほっぺたを引っぱたかれた。あんたなんか大嫌い!と言われて。そのまま、泣きながら走り去ってしまった彼女。
理由は全然分からない。だから余計にへこむ。私の何が悪かったのだろうか。考えれば考えるほどぐるぐるしてしまう。そこに、ああふられたんだという惨めさがミックスする。
涙が滲んできた。
嫌だな、と思う。いっそ溢れてくれればいいのに、じわりと滲むだけの涙。
 

「……需要と供給」
「は?」
 
ふと聞こえた言葉に、慌てて、雫というには少ない水滴を拭った。鼻声になっていないのは幸いだった。
 
「需要と供給だよ」
 
意味をよく理解していない私に、彼は人差し指を向ける。
 
「需要と供給をなくすには消費者を取り除けばいい」
「…どういうことですか」
「お前の悩みの対象を俺が消し去る。するとお前は俺にグチを言う必要もなくなる。とここに来る意味がなくなる。したがって俺は安眠が得られて万々歳だ」
 
えと、それはつまり?
 
 
「彼女サン、ああ元彼女サンか、その子の顔から青痣ひかなくなるくらいまでぶん殴ってきてやるよ」
 
 
……!?
 
 
「は!?」
 
隣を見ると今にも立ち上がりかけている、短い胴。
 
「ちょっと待ってくださいよ、むちゃくちゃです!」
「えーだってそれが一番手っ取り早い」
「倫理的にダメですよ!」
「何で?」
 
ゆっくりと、首がこちらを向く。

開かれた瞳孔と、大きな虹彩。
突き抜けるような、視線。
 
――今日、初めて目を合わせた。
 
「倫理的に、何がダメなんだ」
「え」
「お前を殴ったのはダメじゃなくて、俺が殴るのがダメなのはなんで」
「いやそうですけど、
 やったらこっちが一方的な悪者になりますよ」
「何かいけないのか」
 
え?
 
「お前じゃなくて俺がなるんだから、別にいいだろ」
 
立ち、上がった。
影になった顔に、瞳だけがきらめく。
そのまま、首をかしげる彼。
 
…本気で、言ってるんだ。
疑問を感じることもなく。
気負うこともなく。
ただ自然に、思ったことを伝えているだけなんだ。
無邪気で、悪意など持っていない。

だけど、忘れてはいけない。
残酷なのはえてして、玩具を壊して笑っている子どもなのだということ。

その子どもが、彼だ。
 
今、もしも私が是と言えば、彼は歩いていって、その手を赤く腫らして帰ってくるのだろう。
 
――怖い。
 
「…やめて、くださいよ」
私も、本気で言った。
怖ろしいことになってしまうから。
 
「確かに悲しいってか、惨めったらしい感じで、それはふられたから起こったものだけど」
 
必死で。
 
「俺はその責任を他の人に委ねるほど、腰抜けじゃない、です、」
 
止まって、くれ。
願うように、見上げる。
 
「……そうか」
 
彼が肩をすくめる。
 
「じゃ、いいや」
 
彼はあっさりと、座り込んだ。
私はほっと息をついた。
 
空は青紫色になろうとしている。
 
「…倫理的にダメじゃなくなったら、言えよ」
 
しばらくして、ぽつりと彼が呟いた。
関係の無い事象を、自身を使ってぶち抜こうとする。
彼はそういう人間だ。
だから私は彼を好ましく思い、少し畏れる。
 
とりあえず彼なりに、心配してくれたのだと今は、そう思うことにしよう。