ふわりと甘い白粉の匂いをさせたその人は私に手を伸ばしてきた。
 
*
 
思惑や足並や色が様々に行き交う交差点で私は立ち尽くしていた。
右、左、後ろ、前、何処を向いても、知らない人だらけ。
周りの人は皆背が高くて、私の背丈など彼らの膝くらいまでだ。
 
迷子、になったのだ。
 
忌々しげな舌打ちも聞こえる。そうだろう、往来で子どもが突っ立っているのだから。
西日が眼を射す。視界がちかちかした。少しふらつく。
だがもたもたしては居られない。後ろから右から左から、赤いハイヒールやスニーカーや革靴が私を脅してくる。
私はぎこちないながら、横断歩道を渡り始めた。
そう長くはない道で、向こう側へたどり着いたとき丁度信号が赤になった。
――さて、どこに行こうか。
目的地は父の会社だった。
だが、それは今この場所と対角線上にある。
もう一度あの黒蟻の中に行くのか。
そう思うと億劫だった。
今私の目の前には、天を突くような大きなビルが。
見上げるだけで疲れるような建物だった。
見上げていた私は、疲れたのでふいっと横を向いた。
と。
 
ぽっかりと、穴が開いていた。
 
穴というのはいささか不正確な表現で、実際には穴のような隙間だった。
ビルの横のたくさん積まれたものによって生まれた隙間、その中でひときわ大きな空間。
日常的にあるものだ。隙間くらい、私だって何度も見たことがある。
ただ、黒かったのだ。
今までに見たどの隙間よりも黒かったのだ。
私は引かれるように其処へ向かった。
其処は私がやっと通れる程に狭かった。
直ぐに突き当たりへ行き着くと思っていた。
だが、どうやら奥へ続いているらしい。
進む。
後ろから苛む様に射していたオレンジ色が、どんどん薄くなっていった。
背中も冷えていく。
そして、すべてが闇になった。
どの程度歩いたのだろう。
分からなかった。
とりあえず、進む。
長いと思った。
さっきまで居た場所からはずいぶんと遠ざかっている。
ふと、ここは其の為にあるのではないかと思った。
この闇は、あの西日や交差点や靴のような日常とははっきり違うもの、異界だ。
この先に何があっても、日常を思い出すことは無いようにという。
ぽっかりと開いた無明の闇のさわりの部分だ。
その予感は当たった。
不意に、視界が明瞭になる。
振り返ると、私が出てきたらしいさっきと同じような隙間と、青い闇の空と。
沈む夕陽。
「まァ可愛らしいお嬢さん」
ふわりと甘い白粉の匂いをさせたその人が私に手を伸ばしてきた。
 
 
 
 
 
どうやって帰ったのかは覚えていない。
私を見つけた母の怖い顔、父の苦笑いをした顔。
そこにあったのは帰結だ。
もしかしたら後付けなのかもしれない。
はっきり後付けでないと言える事柄は一つだけだった。
手の感触。
ふんわりと柔らかい手。
うつむいていたから、その人の顔は全然分からない。膝上の短いスカートとがりがりに痩せた足しか見えなかった。
その人は何も言わなかった。
何処かを如何にかして歩いて、派出所にたどり着いた。
其処のお巡りさんは私には笑顔を向けてきたけれど、その人には忌々しげな罵声を浴びせていた。
その人は黙っていた。
黙っていたけれど、最後に私に耳打ちをして、出ていった。
「何も無くなったら、またおいで」
 
私はそれから何事も無かったかのように成長し、笑い、泣いて、たくさんのことを覚えた。
特筆することは何も無い、普通の女の子として生きてきた。
でも、
ふと白粉の匂いがすることがある。
それは母の化粧であったり、工場からのものであったり、あるいは土埃の僅かな甘さであったりした。
私はその度にあの短いスカートやがりがりの足を探している。
目に浮かぶのは、西日の橙からあの青い闇へと切り替わる様。
如才無く日々を過ごしながら、その時にだけふと思う。
 
もしかしたら、私はもう一度あの隙間を潜らないといけないのかもしれない、と。